気がつけば約1年ぶりの更新・・・
この1年間は、コロナ+妊娠でなかなかナーバスな1年でした💦
京都市では妊婦さんは全員PCR検査を行うので、ドキドキしながらPCR検査も受けました😅
我が家は夫婦どちらとも実家が遠いのでなかなか子育ては人の手が借りられず、、落ち着いて演奏できるのはまだ先になりそうですが、少しずつ再開できればと思っています!
コロナに負けずこれからも頑張ります☺️
気がつけば約1年ぶりの更新・・・
この1年間は、コロナ+妊娠でなかなかナーバスな1年でした💦
京都市では妊婦さんは全員PCR検査を行うので、ドキドキしながらPCR検査も受けました😅
我が家は夫婦どちらとも実家が遠いのでなかなか子育ては人の手が借りられず、、落ち着いて演奏できるのはまだ先になりそうですが、少しずつ再開できればと思っています!
コロナに負けずこれからも頑張ります☺️
こんにちは。
いやはやしかし新型コロナウイルス 、大変なことになってきてしまいましたね。
これだけ世界で広まってしまうと、もうお薬が出来るまでは色々と無理かもしれませんね😷京大の山中先生がおっしゃっていましたが、1ヶ月2ヶ月の短期戦ではなく、1年単位のマラソン、と、本当かもしれないですね・・・
さてさて、レッスンも、そしてコンサートもすべて消え、その後予定していたフランスでのコンクールも中止になり、空っぽになった私ですが😝
まずは、散々我慢していたことを全てやってみました。
・朝目覚ましかけずに寝る
・スクラッチアート する
・ハリーポッターをPS2でプレイする
・録り貯めたドラマや番組を見る
・フルートの練習
結論:結局ピアノが一番面白い暇つぶしである😳
スクラッチアート は最初は楽しかったのですが、削ったら誰でも出来る、誰でも同じ図柄になるじゃん、と気がつく。
ハリーポッターはクリアしたところで大した達成感はない。というかクリアしたらそれで終了だし。
ドラマは労力がかからないことなので、達成感はもちろんない。
フルートに至っては、ちょろっと習ってその後もちょこちょこしか吹いていないので下手すぎる、2音で1時間程度練習したものの、初心者のため疲れて終了( ;∀;)
ということで、ピアノに戻ったのでした😅
余談ですが、アマゾンプライムで感染列島って映画見ました。
ウイルスパンデミックに日本が襲われる話で10年前くらいに作られた映画でしたが、結構今の状態を予知していてびっくりしました😯
ピアノの練習は、時間とそして地道な努力が必要。
でも自分が弾く音楽は自分にしかできないので、自己表現ができる。
ここまでで良い、ということがないので一生クリアできない、ピアノなんか曲もたくさんあるから弾いても弾いても新しい曲もある
ピアノやその他もそうですが楽器は昔は、最高な娯楽だったんでしょうね。
今はウイルス要因の戦時中みたいなもんですから、音楽の価値が見直される時かもしれません。ただ一つ、人が集まれないので聴く側は生の音を聴けない、弾く側も生の音を届けられないというのが最大の問題ですが・・・。
特に子供達にとっては、今後ピアノや楽器のレッスンはどうなっていくことか、と頭を悩ませています。
オンラインレッスンもだんだん増えているみたいですが、これはあくまで通常のレッスンの一時的な代用に過ぎず、内容が劣るのは必然、と私は考えています。
音楽の特性上、語学教室や塾のように内容だけ理解できればOKと違って、
手や体に触れて、先生の生の音を聴いて、歌って、真似をして、がやはりレッスンだと思います。
ピアノだと楽器の問題もありますね。京都のような半都会ですと、グランドピアノをおうちに置ける子は少ないですから、レッスンは本物の楽器に触れる機会でもあるわけです。
なので、あくまで仕方なく、そうするだけであって、オンラインレッスンも普通のレッスンも変わらず良いですよ〜、むしろオススメです!はなんか違う気がしています・・・。
ですが何にもないのもダラけてしまうのは確かでしょうし、今の状態が長期化する可能性大ですので、私も一時的な代用としては検討中ですが😬🖥♫
それよりも、月1回か2回でも良いのでレッスンに来れる環境づくりをした方が有効なような?難題です😓
こんにちは。
最近、野良猫ファミリー騒動というのがあって、考えさせられてしまった。これはまた後々書きます。
私のネコジンセイが始まったのは中学校1年生のことだ。
その言葉通り、彗星のごとく家の目の前に一匹のノラ猫が現れた。
キジトラ模様の小柄な猫で、子猫?子供猫?と思った。
そのころはまだ、今のように猫はそこまでペットとして人気はなくて、私たちも、猫は逃げてしまうもの、懐かない、というイメージしかなかった。
でもその子は、逃げもせず誰かが帰宅するとどこからともなく走ってきて体を擦りよせた。
そんな日が数日続いて、ある日、5月だというのにとても肌寒い、あれは運動会の振り替え休日だったように思う。
私と母は祖母の家に車で行って、帰ってくるとその猫が我が家の玄関先の雨が避けられる場所で箱のようにうずくまって座っていた。
その瞬間、母はその子を飼う決心をしてくれた。近くのコンビニで缶詰を買って与えると、ものすごい量を食べた。そして毛布でくるんで、慌てて家にあったダンボールにその子を入れて病院へ連れて行った。
今は洗濯ネットに入れましょう、とか言うけどその時はそんなことは全く知識としてなかったのだ。でもなぜノラ猫を拾ったら即病院、と言う判断がその時できたのか?母は昔、犬を飼っていたからかもしれない。
病院へ連れて行き、不安とこれからこの子はうちの子なんだ、というワクワク感。今でも鮮明に蘇ります。
名前もまだない。考え中です。と言ったら、猫ちゃん(仮)と診察券に書かれた。笑
子供猫だと思ってたのは、とんでもない間違いだった。
そのキジトラはおばあちゃんだった。出産歴もあった。おまけに猫エイズ・猫白血病。口の中は口内炎だらけ。熱もある。リンパ節も腫れてる。
危ない状態です。
ひどい状態でそのまま入院してしまった。
目の前が暗転した。その日、帰ってからお風呂に入りながらも悲しい、心配な気持ちでいっぱいだった。猫の飼い方の本を買ってきて読み漁る日が続いた。
心配でイマイチ、ピアノの練習にも身が入らず先生に怒られた。
心配をよそにキジトラは無事退院した。そして、るい、と名付けられた。私が出会った初めての猫だ。
白血病・エイズ・しかも高齢・歯も抜けまくってる
この最悪な状況にも関わらず、彼女は本当〜に偉かった。ご飯も毎日毎日もりもり食べて、免疫を上げるためのサプリメントも我慢して飲んだ。薬も飲んでくれた。
その結果か、メキメキと体重は増えて行き、途中で何度も発熱・嘔吐・下痢症状などで危ない峠を迎えることはあっても、それを持ち前の生命力で乗り越えてくれた。
ピアノの練習もいつも一緒、寝るのも一緒、野良上がりなのに誰かに飼われていたのか?イタズラもしない、いつも優しい素敵な猫さんでした。
今考えると、あの歳で白血病を発症しているのに驚異的なことだ。丸5年、それから生きてくれた。最後はネコとしてごく一般的な死因、腎臓病で亡くなった。
るいの来歴は全く不明だが、世の中の野良猫は人間の無責任な行動によってなかなか減らない。
最近は、動物保護団体もあるし、里親さんも昔よりは増えたかもしれない。でもチャンスが限られている。
かわいそうだからと餌をやったらダメ、かわいそうな子が増えてしまう、その子は殺処分されるかも。猫が嫌いな人もいる、汚い、不衛生。確かにそうかもしれない。でもそれは全て人間の勝手だ。
じゃあこの目の前の子は?
命の選別と同じこと。
動物は、自分で自分の運命を変える力はない。人間も時と場合に紛争地域に生まれたらそうかもしれないけど。
私が子供の頃はまだ野良犬っていたけど、最近は見なくなった。せめてそのレベルまで、猫や他の動物に対する意識も変わってくれたら。
みんなが可愛い幸せな子猫時代を過ごして、猫生を満喫できますように。
でも豚をペットで飼ってる人にしてみれば、私が豚肉を食べてるのも許せないのかもしれない。
やはり私も勝手な人間の一人には変わりない。人間は誰もが原罪を背負っている。
*宗教のお話ではないです😆
私にできることは小さいけど少しでも力になれれば。切に願うばかりです。
こんにちは。
まだ筆マメモードは続いています。
もうすぐ卒業シーズンですね。いつから始まったのでしょうか?
色とりどりの袴を着て卒業式を迎えることが、定番となっていますね。
みんなで写真を撮ったり社会人になる前のひと時を学生気分で過ごしたりなどこれからの時期を、楽しみにされている方も多いのではないでしょうか。
付属高校からそのまま音大へ進学した、同級生の子たちの卒業の様子、ドイツからFacebookを通じて見てました。
みんなカラフルな袴を着て、キラキラ輝いて。
日本にいた頃には絶対に感じなかったことでしたが、その写真を見てとても圧倒されたんです。
卒業する子達ほぼ全員が、当たり前のように着物を着て袴を着て、髪の毛だってセットされてニコニコと写真に写っている。
レンタルでも借りるのでも、お金がかかるのにみーんな着ている。
なんて豊かで平和なんだろう・・・
と。
勘違いされる方も多いかと思いますが、留学してる=お金持ちなわけではありません。
ドイツの音楽大学は、私がいた頃は半年間で学費は100ユーロ。日本円にして1万んー千円です。比べて日本の私立の音大の学費は0がいくつ違うでしょうか・・・💣
そしてドイツの音大には本当にありとあらゆる国から、色々な事情を抱えた子達が集まっていました。
もちろん、日本の音大生だってよくよく聞けば色々事情はあると思いますが、それと比べ物にならないくらい複雑な境遇の子たちもたくさんいて、総じて学生は本当に貧乏でした。シリアの紛争から逃れてきた難民、なんて子もいました。日本人には考えられないくらいお安いその学費が払えない、高いと言っている子も結構いました。
私なんかは、大学院を卒業するまでは仕送りもありましたし、その中では恵まれた境遇だったと思います。ですが、その写真をみて、なぜだか涙が出ました。
なんとも言えない置いてきぼりを喰らってるような、ひとりぼっちであるような気持ちになりました。
大学を卒業する頃には、とっくにドイツの生活には馴染んでいましたしそれなりに楽しくやっていましたが、何かとインフラやビザの手続きがスムーズに行かないドイツ。(これはおいおい語ります。笑)
外国人として、そしてまだまだ若い小娘として舐められないように、いつもなんとなく虚勢を張っているような感覚がありました。
おまけに、ピアノのことでもまだまだ必死でした。卒業試験が終わったと思いきや、ドイツの各地を周り大学院の入試を受ける日々。その後の引っ越し。
ちなみにドイツに引っ越し業者というのは存在しないので( ;∀;)
伸びきった髪に、適当〜な服で朝起きてすぐ学校に行き練習室を確保。帰って昼寝。また夕方から夜中まで練習、これが大体の私の毎日でした。
(あれ?今でもあまり変わらなくない?というのは置いといて・・・笑)
その状態から見ると、みんなのキラキラ感、周りが全部日本人、なんとも羨ましく、そして今までホームシックにもなったこともなかったのにドイツから日本の、距離みたいなものを感じてしまいました。
今となってみれば、そんな気持ちになったこともあったな〜という感じですがネット広告の袴レンタルの動画を見て思い出してしまいました^^;
そんな思いをして、結果、人から見たら私は何者にもなれていないかもしれませんが、まぁ売れてもなければ有名でもありませんが、前よりはピアノが上手になれてたら、それでヨシということにしましょう😜
今ならもう少し穏やかな気持ちで袴姿も見送れそうです( ^ω^ )
こんにちは。
最近は筆まめになっている私ですが。いつまで続くのやら・・・
不定期更新、もえかの小話シリーズです。こちらでは主に過去の話、ピアノのことやドイツのことなど書きたいことをランダムに書いていくシリーズです。
オチがあまりない話なのでチルってる時にぜひお読みください。
今日は、初めてヨーロッパへ行った時のことを書きたいと思います。
12歳の時だったと思います。
クラシックを勉強するなら、本場の空気を吸うべきではないのか?と母がオーストリア、音楽の都・ウィーンへ連れて行ってくれました。母娘、フリープランの個人旅行。母は特別に英語ができるわけでもないし、ヨーロッパなんて行ったことなかったし、当時はインターネットなんか使ってなかったし。
今考えるとかなり無謀な旅でしたが、鮮明に覚えています。
10日?2週間くらい?だったかなぁ。
長距離飛行機は乗ったことないし、オーストリア航空で行ったので機内のCAさんは12歳の私からみてバリバリの外国人。大きい。金髪。
すでに腰が引けたし、Water please と注文してる母がカッコよく見え、小さな声でしか言えない自分がダメだなぁとすでに飛行機から萎縮気味でした。
飛行機から降り立ち、ホテルへ到着してすでに疲労困憊。
ベットで寝転がっていると、母が一言
何やってるのよ、外へ散歩へ行くのよ!!!!
😫
まじですか。辛い。時差ボケで眠いしもう疲れたと思いつつ外へ連れ出され、当時はスマホなんかないので紙の地図を握りしめて、地図とにらめっこする母にくっついて市街の散策へと向かったのをよく覚えています。
当時、アジア人の子供、が特に珍しかったのかどこへ行ってもとにかくジロジロ見られる。気まずい。
水を買おうとしても、日本みたいにすぐ買えない。
買ったらわけわからん炭酸が入ってる、普通の水はどこですか。
街は綺麗だし建物もすごいけど、夜になると予想以上にその歴史ある感じが不気味に見える
シュニッツェルって有名でガイドブック載ってたけど正直、薄いトンカツだよな
ヨーロッパの夏って日差しの下はすっごい暑いのに日陰になると肌寒い
とか( ´_ゝ`)
くだらないことのようですが、何もかも初めてで新鮮に感じました。
サウンド・オブミュージックの舞台となった場所へ行った日は、日本人コーディネーターに案内してもらい、その人のこともよく覚えています。
おじさんでしたが、とにかく1キロもズレがなく高速を最初から最後まで同じ速度で走る人でした。あまりにも単調な走り方すぎて、私は後部座席から速度計を観察することにしたのです。
そして、色々教会などにも行っておじさんがドイツ人(あ、オーストリア人か)と会話してるのを後ろから見ていましたが、子供ながらに
ドイツ語下手じゃない????ダイジョーブか?
と思っていました・:*+.\(( °ω° ))/.:+ オーストリアも訛ってますが公用語はドイツ語です。ドイツ語なんか私がその当時話せるわけもないのですが、聞いた感じでめちゃくちゃカタカナっぽい語感だったんです。
そんなこんなで、初めてのウィーン旅行はシェーンブルン宮殿のトイレで、旅行前に買ったばかりのデジカメを無くしたりもしましたが^^;
シューベルトの生家に行ったら子供だったからか当時使っていたピアノを弾かせてもらえ、道中迷いつつもベートーヴェンが遺書を遺した家にも行くことができ、確か誰かのお墓にも行けたと思う。
ヨーロッパの風を一瞬でも感じることができて、有意義な旅となりました。
あの歳で行ったからこそ感じ取れた何か、もあったと思います。
このウィーンが私のその後の人生の分岐点とも繋がっていくのでした。
続く。